昭和50年03月09日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもその通りにおかげが受けられるぞ。」

 私共がたすかると言う事は、どんな場合でもどう言う事でも、それをおかげ、有り難しと受けれる心が助かった人の姿だと思うですね。ですから、教組様はもう言うならばその事ばかりを、まあ教えておられるという気が致します。同時にそのそれがなぜおかげなのか。それがなぜ有り難いのか。というわけもそれこそ噛んで含める様に教えておられます。ですからもう一切全てが有り難い。全てがおかげと頂けれる稽古を一生懸命する事です。金光様の御信心は。
 おかげを受けると言う事は、私はそう言う事だと思うんです。どんな場合でもどんな事柄でも、それを有難い有難いとただ無茶苦茶に有難い有難いと言えと仰るのじゃない。こう言う通りの者なんだ。こう言う訳のものなんだ。だから見た目には困った事だとか難儀な事だとか。色々にありますけれども、それを本当な事が段々解って来ると、ね、神様の全部おかげであると言う事が解るだろうと、まあ教えておられる訳ですね。
 あらゆる角度からそこん所を御理解下さってある。そこで信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けよと教えておられる訳です。信心する者はだからもう肉眼から心眼を開かせて貰う稽古と言うてもよい訳です。心眼が開けて参りますとはっきりそれがおかげがおかげと解るのです。それを肉眼で見ると困った事だとか、ね、腹の立つ事だとかと言うように見えるんです。又はそう聞こえて来るんです。ね。
 心の目を開かせて貰うと、それがおかげであると言う事が解るんです。もうそれはもう本当にそうです。人間の浅い知恵とかね、思惑ではどうにも出来ない。本当に神様のおかげであると言う事がね、解らせて貰う。だからそう言う稽古なんです。金光様の信心は日々。所が実際の問題にぶつかりますと、言うならばお互いが生活の現場に戻りますとたい。ね。あぁでもないこうでもないと言う事ばっかりなんです。ね。
 又はあぁしたら良かろうこうしたら良かろう。いやこうなったらさぞかし良かろうと言う事ばっかりなんです。果たしてこうなる事がおかげだろうか。それが後々になって見ないと解らない。ね。今試験のシーズンですから、皆さんが言うならば願いの学校、高校なら高校、大学なら大学に入ろうと思うて勉強もするし、またお願いもするし。ね。だから、それは良いといたしましてもです。お願いもする勉強も一生懸命させて頂いて出来る出来ないは神様任せ。
 そして神様は一番良い道を辿らせて下さるんだと言う事を一つ信じて行く稽古。ね。出来れば有り難い出来なければ情けない。と言う所には助かりはないです。神様の御都合に違いはないとそれを有り難く頂く所に、その人が助かってあると言う事になるのです。気をもまんで済む心配をせんで済む。腹を立てんで済むイライラせんで済む言う事なんです。昨日萩の教会の信徒会長をしておられる石川さんっていう御爺さんがおられます。胃がんでおかげを頂いた方。
 まあ合楽の信心にえらい帰依をされましてね。おかげを頂かれて以来人にもそれを伝えられる。昨日は改まってお礼に出て見えられました。今日は親先生改まってお礼参拝をさせて貰った。どう言う事がそのお礼参拝の目的であったというかと言うと、合楽の親先生との出会いと言う物がもしなかったら、私しの今日の命はもう無かっただろうと言うのです。それから家内が又は子供達が次々と奇跡的なおかげを頂いて、今日ある事も先ずは無かっただろうというのです。
 まあようも合楽にご神縁んを頂いておったと言う事が、もう仕切りに有り難くなって来た。今日実はその事のお礼に参拝させて頂いたとこう言うのです。私もなんか知らん感動した。そのお届けを聞いておる内に。先覚の先生方が教祖の神様に、もしまみえる機会が例えば無かったとしたら、ね、今日の私共の信心もあり得なかっただろう。教祖との先生方の出会いと言うものが、言うならば次々と金光教によって助かる方達が沢山出来て来た様に、合楽にご神縁を頂いておかげを受けておる人達が。
 もし合楽との出会いがなかったら、今日この様なおかげにはなって来なかったと言うそのおかげがです、何処におかげの焦点を置くか。石川さんは何処にその焦点を置いておられるのかと言う事である。先日ももう長い間信心をなさっておられる方に、和賀心時代と言う此処から出ておる本が御座いますね。それをもう次々と読んで見なさい。読んでみなさいと言うて貸して皆に大変感銘を受けられた。
 あるお年寄りの御婆さんに買わせて頂いて読んでし貰うてから、それをまた一辺通り読ませて頂いたばってんもう兎に角おもしろうしてから、有り難うしてからもう一辺読ませて下さいっち言わっしゃった。面白かそして有り難い。思わず知らず読んでしもうた。もう八十位な御婆さん。そしてあの御本を読ませて頂きよったら、あの今の合楽の先生こそ元の椛目の先生げなのと言う事が解った。その時分に椛目の事を聞いておったのですけれども、ね、椛目には間違うた金光様が出来て御座るという評判だった。
 間違うて御座る金光様が出来て御座る。そりゃあもっとひどい言葉で皆が言ったですよね。まるきし因子邪教の様に言うた。丸きりおりあいの詐欺の様に言うた。本当に金光様のご信心にはああ言う信心はないと、もうそれこそ極言して面から言う人もあった。拝み信心だと言う者もあった。その御婆さんの耳にも、やっぱ椛目には間違った金光様が出来て御座ると言う風に聞いておった。椛目時代の事からずうっとあの和賀心時代には出ておりますから。ね。
 そして今の合楽の教会長である先生こそが、元の椛目の先生であった事が分からせて頂いて、是こそ本当の金光様と言うてその、喜ばれたと言う話をしておられました。本当なものを目指すと言う事には、本当なおかげが必ず伴うです。どんなに是が本当とかと言うておっても、本当な物が伴わないならばそれこそが本当のもんじゃないのです。その本当な物と言う事がです、なら私はどう言う事をもって本当な物であるか。
 又は是が本当な事だと説いて来たかと言う事を、皆さんが色々考えて下さると、今日のご理解が分かるんです。ね。成り行きを大切にして行け。一切をねそれは損になる事があるかもしれん。恥ずかしい思いをする事があるかも知れん。ね。腹の立つ様な思いをする事があるかも知れんけど、その事事態を神様の御働きとして、御の字を付けて合掌して受けて行けとこう言うのです。
 そういう受け方こそが生神への道なんです。そして受けて見てそれこそ受けて受けて受け抜かせて頂いて、初めて五年たち十年経ち二十年経ちする内にです、それが本当な事であったそこに私共の心の助かりと言う物が、ね、確信を持って頂き感じられる様になると言う事ですね。ですから今お互いが感じておる所の難儀。今そのふんまえておる所の難儀その物もですね、おかげであるという頂き方をする所からですね、又その訳を分からせて頂く所からですね、稽古と言う物は始められなければいけません。
 今踏んまえておるお互いが難儀と感じておる事ならです。ね。それをね本当におかげとしてお礼の言えれる所まで私は稽古だと思うです。ね。それには最近ね、表行によって分かるのではなくて心行と。心の行もう合楽ではこの心の行だけしか今申しません。ね。心の行というのは暑い寒いを言うてはならん。不平不足を言うてはならんと。ね。暑い寒いと言う事は、天地に起きて来る、天地の間に起きて来る様々な暑い寒いがありましょう。その事に不平不足を言わん。ね。
 心行とはそう言う物だと。それを最近はまあ具体的にです、もう様々な中から是こそが心行だと言う風に説かれております。私が何時もお風呂の例をとりますけれども。ね。お風呂に入って言うならば、石鹸を使わせて頂いても、ただ石鹸箱にポンっと入れただけであったら表の方は渇いておるけれども、裏の方はビチャビチャになってからいけません。明くる日使う時も気持も悪い、石鹸もそれだけ減ってしまう。
 ですから、又次の人が使わせて頂く時も気持が良い様にそれを私はこう言う風にしておくと石鹸を何時も綺麗に使えるという、そういう心を使う事が心行なんです。ね。夕べも私1時半頃お風呂へ入らせて貰った。今朝方です風呂のフタは半分こうあかっとる。石鹸は幾つも出してあるがぺタッとおいとるからあのベタベタ。ね。タオルはこうこう言う風に掛かっとる。まあねそれを結局心行と言う事に心をおいてない。
 心を使うと言う事有り難い方へ有り難い方へ心を使うと言う事が、行き届いた心を使う事がそのまま心行だと私思うです。細かぁい所へ心を使わせて頂いてです、心行させて貰う。今朝から私御祈念中にある先生が、大変この先生はお話の上手な先生でした。その先生の後姿を頂いた。教衣を付けてある。ね。御説教の時に着けるあの黒い装束は教衣と言います。そして頭には正装の冠を被って御座る。ねこう正装の時の冠を被って、下の方だけは教衣を着けておられる。おかしな事ですよ。
 それはどう言う事かと言うとです、正装と言う事が本当な事ならばです、ね、例えば言うならば、自分はもう大先生になった様な気持ち。言うならば信者に、まあとくとしとくしてお話は上手ですから口に任せてもうどげなん話しでも出来なさる。ね。どんなに話しを言わば説得力があるというか、分からせたからと言うておかげを頂くもんじゃない。おかげと言う物は、モリモリの力と仰る様に、その先生の力なんです。話しを聞いて合点がいき話しを聞いてその人改まり、ね。
 信心を進めて行くと言う事は、有り難い事ですけれども。頭には冠を頂きながら、下は教衣である。是では助からん。自分自身がなら上も下も本当なものにならなければいけん。という事は自分自身その先生自身が助かってね、助かってしまうと言う事は中々出来ませんに致しましてもです、本気で自分自身が助かろうという願いを持たなければいけん。そして、自分自身がその助かる事の為の愈々精進をなされとかなければだめ。自分は助かってない助かろうと精進もしてない。
 そしてこげんすりゃ助かる。そげんするがほんなこっと言うて、如何に得々と説いてもそれは、ね、話し家の話の様なもんですから、面白可笑しゅうはあってもです、涙の出る様にあってもです、それで助かると言う事はない。落語屋の話を聞いて病気が治ったという話を聞いた事がない。ね。又ある先生が事をお願いしよったら頂いた。此の位ばっかりのわに口ですお金入れ。そのわに口のねその口がもうえらいこう裂けたように大きい。口が大きい。だからお金を入れる所はちょこっとばっかりになってしまうです。
 口が大きいから。皆さんもよう本当思うとかにゃいかんですばい、おかげが頂きたいならばね。まぁあれなんちゅうでしょうか。オオバアと言うでしょうか。まぁうだくと言いますこの辺で。ね。大きな口をたたくという。ね。と言う事は丁度そのわに口の口がね、もう普通異常に大きいのですから、口が大きくなったら下のお金の入る所は僅かでしょう。ね。いかに私は真を本当な事を語らして貰うおかげを受けなければならんかと言う事が分かります。本当な事がいい本当な事が行なえると言う事。
 そして何時も自分が前向きな姿勢と言う事は、自分自身が助かると言う事。自分自身が助かると言う事を考えとかなければいけない。人が助かるのじゃない。先ずは自分自身が助からなければならない。自分自身が助かれば自分に係わり合いのある人達が段々継々と助かって行く。親が助かりゃ子供が助かる。主人が助かりゃ家内が助かる。家内が助かりゃ主人も助かる。だから先ずは自分自身が助からなければならない。こんな事を言い真の事を言い。真の事を行うて行けれるおかげね。
 それを言わば実際の上に現して行く為には、所謂心行が必要である。心使いが大事である。そんなら何処に焦点を置いて行く事が助かる事かと言うとです。ね。一切を有り難い有り難いと受けられる時に、あなたは助かっておると言う事が言えるのですから、ね、自分の周辺に有り難くない事があまりにも沢山ある。あれが有ったならさぞ良かろう。是がこうあったらさぞ良かろうと思うとる事ばっかりと言う事は、もうとりもなおさずそれは不平不足で心の中がいっぱいになっておるのです。ね。
 本当言うたら、どちらを向いてもあれもおかげこれもおかげ。それこそあの人のおかげで此の人のおかげでと言うのが事実なのだけれども、ね、自分の心の使い方が悪いと皆んなが自分の不平不足の材料にばっかりなっておると言う事。そこに、救われておる人、助かっておる人の差がある訳です。誰でも初めから助かるじゃない、だから本気で自分が助かろうと言う願いを持って、精進しなければいけないと言う事。しかもその精進は、楽しい事であり、有り難い事であるのですけれども。
 その精進をせずして只おかげを願う助かりたいと言ったんだけでは助からない。どんなに巧者になり、詳しゅうなって人にも得々とお話が出来る様になっても、自分自身が助かっていなかったらおかげにはならん。ね。私は、ね、自分が助かると言う事は、人が助かる事に繋がる。一人助ければ一人の神と言われる。十人助かれば十人の神と言う事になるのです。先ずはどうでも自分が助からなきゃいかん。
 金光教の信心者はもう全部が言うならば、総生神を目指すと言う事がお道の信心です。生神とはですね、丸い手鞠の様な物に喜びという字を一杯書いて、転がす様な物だと言う事。どちらへ転がしても喜びしか出て来ないと言うのです。所が実際は有り難く無い事ばっかりあるけれども、それを有り難く頂く事の為の修行をする。不思議に修行さして貰よると有り難くなれる。その事にお礼が言えれる様になる。
 お互いに、先ずは自分自身が本気で助かる、稽古をしなきゃいけません。ね。その助かる稽古の焦点をです、ね、私は生神。自分の心の中にどれ程喜びが大きく広がって行くか。喜びで受けられるかと言う所に焦点を置いて稽古さして貰う。ね。そういう例えば、皆さんがおかげを頂いて、本当にあれもおかげであった。是もおかげであったと分らして頂く様になったらです、本当の信者だとおうせられるのですから。そこから本当の意味においてのおかげが現れて来る。
 そういうおかげが頂けて来る様になる時です、初めて市川さんじゃないですけれども、合楽の御神縁を頂いておったと言う事が、大坪との出会いがです、どんなに尊い、素晴らしい事であったかと言う事が解るのです。ね。言うならば自分も助かり、師匠も助かる。ね。そういう助かり方を目指して貰う。そしてそれを日々の生活の言わば現場においてです、ね、所謂ぶっつけ本番です。ね。生神になる所のもうぶっつけ本番の、場と言う物はお互いの生活の現場にあるのです。
 もう一寸した事が心に引っ掛かって引っ掛かってしょうがない。私はこうがよかと思うばってん。あげん言いなさるけんでともう、本当にそん位な事ならば、もうそれこそ、どうーーでも良いと私なら思えれる事をです。もうそれで心気病んで。ね。是ば済みませんけど右の方へやって下さいとこう言う。私は左の方がよかっち思うばってん。もうそれが引っ掛かって引っ掛かってしょうがない。ああそうですかと言うて、左にやってくれっちいやあ左にやりゃあ良し。
 右にやってくれと言うたら右にやったら良し。もうそこからおかげを受けて行けれる道なんです。それを私は右が良い左が良いと。そしてそれが引っ掛かってと言うから、そこにおかげの全てが引っ掛かってしまう。ね。それこそあるがままになるがままに。それこそ流れる水に不平も荒らす。と言う様な生き方をね、身に付けて行く稽古を本気でしなければいけません。それが生神への道です。ね。
 必ず生神へ向かって進んで行けれる信心。そこから言うならば本当の助かり。私の助かり。右が良い左が良い。ね。そりゃ左が良い、そう思います。思いますからお取次ぎを頂きます。ね。お取次ぎを頂いたら、もう右になっても良い、左になっても良いというそういう受け止め方がです。私は生神への精進であると思います。ね。ですからこの生神への精進と言うのは、いかにも生神と言うと、大変その難しい。成程私共が一生かかって教組様の様な事にはとてもしませんけれどもです。
 それに向かうと言う事は、みやすいことなんで。本気でそう言う事にならせて頂こうと、自分の心の中に一心発起したら、もうその場から生神になるけいこが出来るのです。それを何処までそれを、たどらせて頂くかと言う事であってです、ね、それが楽しいのです。信心が有り難いとか、楽しいとかというのはそれなんです。金光様の御信心は。これはもうおかげを頂くから楽しい。そんなに自分の思う様に、なら御利益と言う事があるとは思われないですから。ね。
 右になっても左になってもおかげと、思え言えれる信心を目指すと言う事はもう、今日ただ今から出来るのです。しかもそれは大変、それが稽古が出来てくれば来る程楽しゅうなって有り難うなって来るです。例えばねなら風呂なら風呂に入らせて頂いてです、言うなら、自分の心を使わせて頂いて、タオル一本の上にも石鹸いっちょの取り扱いの上にでもです、心を使わせて頂いて一辺風呂場ば、上がる時に見てご覧なさい。もう本当にこげん有り難い気持ちのいい事はないです。
 本当に合掌して風呂場にお礼を言わなければおられんです。生神への精進とはそう言う事なんです。ね。そういう言わば稽古の場と言う物は幾らでもある筈です。私共の周辺に一杯です。右と言いよんなさるけんで私は左が良いと思うけれどもと言う様な事は幾らでもある筈ですああそうですね。あぁそうですねとこうもう本当にそういう頂き方に、私は人間の言わば助かるといやあそう言う様な心の状態。どっちに転がしても喜びしか出らんという生き方を愈々身に付けて行かなければいけないと思うですね。
   どうぞ。